私の中だけにいる古今亭志ん朝

三代目古今亭志ん朝が好きだ。落語は全く詳しくないが親が持っているものを掘り出して聞いている。好きだと言っても、うちには志ん朝のCDは「佐々木政談」「夢金」「酢豆腐」「鰻の幇間」しかないので、それを繰り返し聴く。

YouTubeはめんどうで気が向かないので今のところみていない。そうやって情報を得ないものだから、大海のような人物であるはずの志ん朝は今の私の中ではほぼその4つの落語を喋る声のみで構成されている。映像を見ていないどころか顔写真も数枚見たくらいなので、微少なそれらの情報で出来上がったとても限定された志ん朝なのだ。

子供のころ好きだった漫画に対する代えがたい愛おしさというのはこれに似ている。巻数の揃っていない漫画や、作者の仕事の一端でしかない1シリーズを子供の私は繰り返し読んだ。揃っていないことや他の作品があることについて、どう思っていたのか忘れたけれども、私は持っているものをずっと読んでいたように思う。話を楽しむとかいうよりも、字と絵を目でなぞることが好きだったのだろう。

たまたま手に入れたものをそれだけ見る、今時点の志ん朝の楽しみ方が子供の頃の漫画の楽しみ方と似ているということだ。

ふと新たなCDを追加するかと思い、AmazoniTunesの在庫を調べてみると、志ん朝鬼平犯科帳を音読したというオーディオブックがあった。試聴してみると落語より少し落ち着いた静かな声が流れ、私の中にいる志ん朝が新たな面を見せ私はクラっとした。知っているものの違った一面を見た時は、その奥行きやさらなる一面への期待にクラっとするものだ。

他にも『平成狸合戦ぽんぽこ』のナレーションもやっていると知り、にわかに高校の頃の記憶が思い出された。友人たちを家に呼んだ、後にも先にも一回だけの自分の家でのお泊まり会、その日以外そのメンバーで遊んだこともないという珍しい日の夜に、金曜ロードショーで『ぽんぽこ』が流れていたのだった。みんな途中で寝落ちた。あの日を思い出すスイッチが、平成狸合戦ぽんぽこのナレーションだとは予想していなかった。私はあの頃バナナマンのコントにハマっていて,好きなやつを一つ一人二役で披露したといういらぬ思い出まで掘り起こされた。