近所のハト

最寄駅の図書館前には多くのハトが寄り集まっている。それらを見ていると、歩いては地面をつつきしているが、落ち葉のカス溜まりや何か水分のポタと落ちたところ、アスファルトやタイルの溝、それから土の部分などを主につついていて、ふうむ、そこに美味しいものがあるのかと思う。

何度も通っているとだんだん同じハトが来ているんだなと気づく。痩せからデカ、頭の禿げたやつ、片足のやつ、羽が曲がったやつ、白いやつ、たまにドバトでなくキジバトがいる。今日は片足のやつを久し振りにみて、死んでいなかったと嬉しかったが、なんとなく無い足の方の、本来足の付け根に当たる部分が腫れているような気がして心配だった。急いでいてよく見れず写真も撮れなかったが、いつ会えるかわからないのだから、もう少し見ておけばよかった。

3年くらい前、足無しにひとかけら食べ物を投げ去っていったどこか近くの店のおじさんは今もあげているのだろうか。一度だけしか見ていないから、その日だけの気まぐれだったかもしれない。そのことを前に友人2人に話したら、野生のものに手を加えてはいけないんだよぉと言われそうそうと同意されそれ以上話は進まなかった。全てのハトにエサをあげているわけじゃなくて、その足無しにたったひとかけらをやっていただけなんだけどなと思った。歩道の隅で一羽じっとしているそのハトを認識して、仕事の合間にひとかけらやるというおじさんの営みの方の話をしたかった。他の時間におじさんがハトに山盛りのエサをやってハトがどんどん増え困っていたとしても、そうでない場合もあるし、その話をしたいわけではなかった。

眠れぬ夜のWi-Fi

夜型人間の私はそれを戻そうとするが上手くいかない。

眠りたいのに眠れない夜は何もする気になれない。してしまったら朝になる。しかし正午に起床した私の脳はまだ活発だ。寝るために無心になるとまぶたの裏の真っ暗な画像が脳内に満たされ、このままいけば眠れそうと思うが、知らぬ間にすぐに言葉の思考に気をとられている。暗さだけがあったはずが、気づけば脳内の思考に耳を傾けていて、まぶた裏の暗闇を認識していなくなっている。

思考していると、その内容に付随して感情が生まれる。楽しかったとか嫌だったとか、おもしろいとか、そういうことを感じてしまうと神経が興奮して眠れないのだ。

私はたまらず暗闇の中体を起こす。

分厚くぼこぼこの加工がなされた窓ガラスをやっとの事で通り抜けてくる街灯の青白い光が、窓を覆うブラインドで細長く切られ棒状の連なりとなって浮かんでいる。

部屋にはもう一つ光がある。最近部屋に導入したWi-Fiルーターの放つ、これも青白い光である。手前奥二重に本が入れられる本棚の奥側、そこの本たちの上に横にして置いている。手前側の本の上には、縦に入り切らない本を横にして重ねているので、ルーターの前に本がある状態になり、その隙間を縫って届く光なので、ぼうっとしている。奥の方にしまったまま忘れていた本が一冊光っているみたいだ。

寝るときはメガネもないからますますぼうっとしている。

もう一度寝る努力をしようと思う。どうしても寝なきゃならないときに実践した方法で、有効だったものをひとつ思い出した。耳をすますという方法である。思考しているということは脳が動いているので、眠れない。しかし、外の車の音や扇風機の音、何かわからないいろんな夜の音を聞こうとすると、耳に意識が行き脳内思考を巡らさずにいられることが多いのだ。

まぶたの裏に注目するのも有効な事かもしれない。とにかく脳内に行くことを避け、自分の身体機関のどこかに神経を持って行くことは効果があるように思う。これは普段行わない、とても面白い行為でもある。自分の身体的な感覚の存在を新鮮に意識できる瞬間があるからだ。自分の手の感触に意識を集中してみたり、自分の体の形を神経で追っかけてみたり、色々やり方も発掘できそうだ。

私の中だけにいる古今亭志ん朝

三代目古今亭志ん朝が好きだ。落語は全く詳しくないが親が持っているものを掘り出して聞いている。好きだと言っても、うちには志ん朝のCDは「佐々木政談」「夢金」「酢豆腐」「鰻の幇間」しかないので、それを繰り返し聴く。

YouTubeはめんどうで気が向かないので今のところみていない。そうやって情報を得ないものだから、大海のような人物であるはずの志ん朝は今の私の中ではほぼその4つの落語を喋る声のみで構成されている。映像を見ていないどころか顔写真も数枚見たくらいなので、微少なそれらの情報で出来上がったとても限定された志ん朝なのだ。

子供のころ好きだった漫画に対する代えがたい愛おしさというのはこれに似ている。巻数の揃っていない漫画や、作者の仕事の一端でしかない1シリーズを子供の私は繰り返し読んだ。揃っていないことや他の作品があることについて、どう思っていたのか忘れたけれども、私は持っているものをずっと読んでいたように思う。話を楽しむとかいうよりも、字と絵を目でなぞることが好きだったのだろう。

たまたま手に入れたものをそれだけ見る、今時点の志ん朝の楽しみ方が子供の頃の漫画の楽しみ方と似ているということだ。

ふと新たなCDを追加するかと思い、AmazoniTunesの在庫を調べてみると、志ん朝鬼平犯科帳を音読したというオーディオブックがあった。試聴してみると落語より少し落ち着いた静かな声が流れ、私の中にいる志ん朝が新たな面を見せ私はクラっとした。知っているものの違った一面を見た時は、その奥行きやさらなる一面への期待にクラっとするものだ。

他にも『平成狸合戦ぽんぽこ』のナレーションもやっていると知り、にわかに高校の頃の記憶が思い出された。友人たちを家に呼んだ、後にも先にも一回だけの自分の家でのお泊まり会、その日以外そのメンバーで遊んだこともないという珍しい日の夜に、金曜ロードショーで『ぽんぽこ』が流れていたのだった。みんな途中で寝落ちた。あの日を思い出すスイッチが、平成狸合戦ぽんぽこのナレーションだとは予想していなかった。私はあの頃バナナマンのコントにハマっていて,好きなやつを一つ一人二役で披露したといういらぬ思い出まで掘り起こされた。